造り変える力、とは

昨日も引用した、井沢元彦の「逆説の日本史(2)」。

逆説の日本史2 古代怨霊編(小学館文庫): 聖徳太子の称号の謎

逆説の日本史2 古代怨霊編(小学館文庫): 聖徳太子の称号の謎

著者は[第四章 平城京奈良の大仏編]で、日本人の宗教観について解説を加えている。
聖武天皇が「大仏の建立」という仏教の信仰に基づく事業について、八幡大神という日本の神の協力を願ったことを、「実に奇妙な話だ。」と一神教である西洋の宗教観と対比しつつ、「日本はこういう国なのである。」「こういう形が、日本人の宗教感覚なのである。」と指摘をしている。「日本人の宗教はもともと『八百万の神』に対する信仰であり、(たとえ外来宗教が入ってきて、帰依する人々が増えても)根本原理は変わらない。」と。
すなわち、「仏教が入ったキリスト教が入ったといっても、それは日本人の宗教上の永遠のテーマを解決するための方法論として取り入れたので、その宗教の純然たる信者になったわけではな」く、オリジナルな宗教が日本人向けに造り変えられて定着したというのだ。仏教であれ、キリスト教であれ、和を以て貴しと為す、とか、八百万の神とかの「日本教」に取り込まれて造り変えられてしまうのだ、と。
この日本人の宗教感覚を、うまく文学として表現したものとして、著者は芥川龍之介の「神々の微笑」を引用している*1
私には、芥川がいうところの造り変える力というのが、日本だけに存在するものであるかどうかわからない。「ローカライズ(localization)」という英単語を、「翻訳(translation)」を包含する「土着化」に近い意味合いで用いて、海外の同僚たちと意思疎通できているところを見ると、この造り変える力というものは、日本固有ではなく、どの国の人々にも備わっている技術・文化のように思われる。
外来の思想や方法論が、若干の手直しを経て実際に使われるようになることは、日本以外の地でも十分考えられる。が、日本の場合は、その造り変えられる度合が甚だしいのかもしれない。
日本の年末年始がいい例だ。天皇誕生日 〜 クリスマスイブ 〜 クリスマス 〜 正月準備 〜 大晦日 〜 除夜の鐘 〜 神社仏閣に初詣、と流れ、「日本教」のイベントにキリスト教と仏教のイベントが造り変えられて取り込まれてしまっている。

*1:「神神の微笑」は、青空文庫で全文が読める。ちなみに、私はこのやり方で、ルビ付きの文章をPDF化して、Kindle3で読んだ。ごく短い小説だからすぐ読めると思う。